東京高等裁判所 昭和43年(行ケ)2号 判決
一 本件に関する特許庁における手続の経緯、本願発明の要旨および本件審決理由の要点が原告主張のとおりであることは、当事者間に争いがない。
二 そこで、本件審決に原告主張のような違法事由があるかどうかについて検討する。
(一) 取消事由1について
成立に争いのない甲第五号証によれば、D培地の組成割合は、コーンミール二パーセント、大豆粉一パーセント、炭酸カルシウム〇・五パーセント残余は水であつて、その固形分総量三・五パーセントに対してコーンミールと炭酸カルシウムの和は二・五パーセントであつてD培地の主成分であり、また、D培地からコーンミールを除いた培地は、酵素の収量を鋭敏に減少させるものである事実が認められる。しかしながら、プロテアーゼ生産菌の培地として大豆粉単用の培地が使用されることが周知であることは、原告もこれを認めるものであるところ、D培地からコーンミールおよび炭酸カルシウムを除いたものは、周知の大豆粉単用の培地と同じ成分の培地となるにすぎない。一方、前記甲第五号証によれば、D培地においてはコーンミールを除いてもプロテアーゼ生産菌自体の成長は減少するものでないことが認められ、また、炭酸カルシウムを除くことによるプロテアーゼ生産菌自体の成長に及ぼす影響については何らの記載も見られない。それ故、コーンミール及び炭酸カルシウムは、これを除いてもプロテアーゼ生産菌の成長を減少させないのであつてみれば、大豆粉はプロテアーゼ生産菌を培養するに足りる培養源として必要な諸成分を備えたものであるということができる。したがつて、D培地からコーンミール及び炭酸カルシウムを除いた培地は技術常識として考えられないということはできない。
また、成立に争いない甲第二号証によれば、本願発明の培地には燐酸アルカリ金属塩〇・〇五パーセントから三パーセントを添加したものが使用される旨が本願発明特許公報の詳細な説明の欄に記載されているが、この範囲内においてその濃度条件には何らの限定もされていないことが認められる。一方、成立に争いない甲第三号証によれば第一引用例の培地には燐酸カリ三パーセントが添加されていることが認められるから、本願発明の培地と第一引用例の培地では添加された燐酸アルカリ金属塩の濃度について格別の差異がないものというべきである。そして、その使用目的についてみても、原告は本願発明においては燐酸アルカリ金属塩が菌体成長時に必要な培地成分として使用されている旨主張するけれども、かような事実は、前記甲第二号証によつても認めることはできず、他にこの事実を認めるに足りる証拠はない。のみならず、燐酸アルカリ金属塩を使用することによつてプロテアーゼの力価を上昇させるという効果の点では、本願発明と引用例とでは全く異なるところはない。したがつて、原告主張のごとく本願発明と引用例とでは燐酸アルカリ金属塩を使用することについて技術思想を異にするということはできない。
よつて、原告の取消事由1の主張は採用することができない。
(二) 取消事由2について
原告は、本願発明の培地の力価は(E)五〇(大島変法)であることを前提に、本願発明に格段な作用効果がある旨主張する。原告の主張は要するに、前記特公昭三三―一五九一号公報記載の第一図の1と第二図の1との力価の比較より、培地の組成が同じであれば使用菌種が異なつても効果は同じであるとして、第一引用例の使用菌が四三三号菌であり、特公昭三三―一五九一号公報第二図の2の使用菌がA一―五菌であるにもかかわらずこれを同視して、第一引用例と特公昭三三―一五九一号公報第二図の2との両者の培地の相違による力価の比較を行おうとするものである。
しかし、使用菌が異なつても、培地の組成が同一であれば、その効果は常に同じであるとは必ずしもいえないことは、特公昭三三―一五九一号公報の第一図の2と第二図の2を比較すれば明らかであるから、原告の主張する力価の比較方法は正当とはいい難い。のみならず、前記甲第二号証、成立に争いない乙第三号証によれば、本願発明の培地のうち、水に大豆と燐酸アルカリ金属塩とを添加した培地については、その力価が(E)二七・七八の場合があること、成立に争いない乙第二号証によれば、本願発明の培地のうちその余の培地についても、培地を組成する各成分の割合の変化により、その力価は常に(E)五〇となるものではなく(E)四二・一七以上(E)五〇未満のものも可成り存在することが認められる。したがつて、本願発明の培地の力価が常に(E)五〇であるとすることはできない。他方、前記甲第三号証によれば、第一引用例においては、D培地、入江培地及び〓五パーセント培地について、燐酸カリ無添加のものと添加したものにおけるプロテアーゼ力価が対比され、カツプ法、比色法による測定によれば、前者の力価が何れも一以下であるのに対して後者はほぼ九であつて、培地に燐酸カリを添加することによつて力価が約九倍に上昇することが示されている。そこで、これを大島変法による(E)力価に換算すれば、入江培地について、燐酸カリ無添加の場合は、(E)八・三から一二・五までとなり、燐酸カリを添加した場合は、(E)七四・七から一一二・五までとなる。また、前記のように入江培地の外に燐酸カリを添加したD培地、〓五パーセント培地の何れの場合も、燐酸カリを添加しない場合に比してその力価は約九倍であることを示しているところ、前記乙第二号証によれば、燐酸カリ無添加のD培地の力価は大島変法によれば(E)一二・五であることがうかがわれ、成立に争いない甲第一〇号証によれば、第一引用例の〓五パーセントの培地と近似した組成である〓二パーセントの培地の力価は燐酸カリ無添加で(E)八・四であることがうかがわれる。したがつて、両者にそれぞれ燐酸カリを添加した場合、力価をそれぞれ九倍して前者は(E)一一二・五となり後者は(E)七五・六となり、前記燐酸カリを添加した入江培地の力価とほぼ等しい値となることが認められる。したがつて、本願発明の培地による力価が原告主張のごとく(E)五〇となるとしても、この値は前記各培地の場合に比してかえつて劣ることになり、決して顕著な効果があるとはいえない。
三 よつて、本件審決には原告主張の違法はないから、原告の請求を失当として棄却することとする。
〔編註〕 本件における請求原因は左のとおりである。
一 特許庁における手続の経緯
原告は、昭和三五年一〇月二七日名称を「液内培養法による糸状菌プロテアーゼ液の製造法」とする発明について特許出願をしたところ、昭和三八年五月二一日特許出願公告がされたが、昭和四一年七月二二日拒絶査定を受けた。そこで、原告は、同年一〇月一一日これを不服として審判を請求した。特許庁は、昭和四一年審判第七〇六〇号事件として審理した結果、昭和四二年一一月一五日「本件審判の請求は成り立たない。」旨の審決をし、その謄本は、同年一二月二〇日原告に送達された。
二 本願発明の要旨
水に大豆と燐酸アルカリ金属塩とを添加した培地、又はその培地に更に脱脂大豆或は〓を添加した培地、又は水に脱脂大豆、〓及び燐酸アルカリ金属塩を添加した培地に糸状菌を接種して深部培養することを特徴とする糸状菌プロテアーゼ液の製造方法
三 本件審決理由の要点
本願発明の要旨は、前項記載のとおりである。ところで、日本農芸化学会誌第三二巻(第三五六号、第三五七号)六〇七ページから六〇九ページまで(以下「第一引用例」という。)、日本農芸化学会誌第三一四号五五〇ページから五五四ページまで(以下「第二引用例」という。)及びアーカイブス・オブ・バイオケミストリー・アンド・バイオフイジツクス第四一巻四八ページから六〇ページまで(以下「第三引用例」という。)には、ドヴオルシヤツク等の培地、入江の培地、〓五パーセントの培地に第一燐酸カリを添加して糸状菌のプロテアーゼ生産菌株を接種培養すると、第一燐酸カリ無添加の場合と比較して何れの場合もプロテアーゼ力価が著しく上昇すること、入江の培地は脱脂大豆粉三パーセントを含み、他にグルコースを含む培養液であること、ドヴオルシヤツク等の培地は大豆粉一パーセントを含み、他にコーンミール及び炭酸カルシウムを含む培養液であることなどがそれぞれ示されている。
そこで、本願発明の方法と前記刊行物に記載された方法とを比較してみると、使用菌、培養操作などの点では、両者は特に異つてはいない。培地の組成についてみると、水に大豆と燐酸アルカリ金属塩とを添加した本願方法の培地は、第一引用例に示されたドヴオルシヤツク等の培地に燐酸アルカリ金属塩を添加した培地、すなわち、水、大豆粉、コーンミール、炭酸カルシウム及び燐酸アルカリ金属塩よりなる培地からコーンミールと炭酸カルシウムとを除いたにすぎないものである。しかも、糸状菌の培地として大豆粉或は脱脂大豆粉を単独で用いることは、第二引用例にも示されているように本出願前より周知であり、かつ、第一引用例に第一燐酸カリを各種培地に添加して糸状菌の生産するプロテアーゼの力価を上昇させることが示されているのであるから、第一引用例の前記培地からコーンミール及び炭酸カルシウムを除き、水と大豆と燐酸アルカリ金属塩のみよりなる培地とすることは、前記引用例の記載に基づいて当業者が容易に推考することができる。
次に、本願発明の水に大豆と燐酸アルカリ金属塩とを添加した培地に更に脱脂大豆或いは〓を添加した培地および水に脱脂大豆、〓及び燐酸アルカリ金属塩を添加した培地についても、これらの培地の各成分を糸状菌の培地成分として用いることが前記各引用例に示され、また、第一引用例に第一燐酸カリの添加がプロテアーゼ力価を上昇させることが示されている以上、これらの培地成分を適宜組合せ、これに燐酸アルカリ金属塩を添加してプロテアーゼ力価を上昇させることも、当業者が容易に推考できる程度のことと認められる。
さらに、本願発明の効果は、第一引用例に記載された技術内容よりみても予測できる程度のものであり、特に顕著なものとは認められない。
以上の点よりみると、本願発明は、第一引用例から第三引用例までに記載された発明に基づいて容易に発明をすることができたものであるから、特許法第二九条第二項の規定により特許を受けることはできない。
四 本件審決を取消すべき事由
(一) 本件審決理由のうち、本願発明の要旨および引用例の記載内容についての認定ならびに本願発明の方法と引用例の方法を比較して、使用菌、培養操作などの点では両者は特に異なつていない旨、糸状菌の培地として、大豆、脱脂大豆粉の単用が周知である旨および本方法における各培地の各成分そのものは、糸状菌の培地成分として用いることが第一引用例から第三引用例までの各引用例に示されている旨の認定は争わない。
(二) しかしながら、本件審決は、次の点において誤つており違法として取消されるべきである。
1 本願発明の培地成分の組合わせは、引用例から容易に推考することができないものである。引用例における燐酸カリの使用は、PH緩衝と浸透圧との調整に作用させるものであつたのに対し、本願発明における燐酸アルカリ金属塩(燐酸カリを含む)の使用は、培地成分そのものとして用いるもので、技術思想を異にし、引用例からは当業者といえども容易に推考することはできない。本件審決はこの点についての判断を誤るものである。
これを詳言すれば、本件審決は、本願発明における培地の一つである、水に大豆と燐酸アルカリ金属塩とを添加した培地(以下「K培地」という。)は、第一引用例記載のドヴオルシヤツクらの培地(以下「D培地」という。)に燐酸アルカリ金属塩を添加した培地からコーンミールと炭酸カルシウムを除いたにすぎない培地である旨判断した。しかしながら、D培地におけるコーンミール及び炭酸カルシウムは、その培地組成の大半を占める主成分であり、しかも、第三引用例には、D培地からコーンミールを除いた培地では明らかに酵素の収量が減少した旨及び炭酸カルシウムの存在は酵素の生成に必須である旨記載されている。してみれば、D培地からコーンミールおよび炭酸カルシウムを除くということは、第三引用例の記載からみて技術常識として考えられない。したがつて、K培地を第一引用例におけるD培地に燐酸アルカリ金属塩を添加した培地からコーンミールと炭酸カルシウムとを除いたものにすぎないとすることは誤りである。
また、第一引用例には、D培地、入江培地、〓培地などの従来からのプロテアーゼ生産用培地に、燐酸カリ三パーセントを加えることによつて力価を上昇できることが示されているが、同時に、PH緩衝と浸透圧の調整に重要な作用があることが指摘されている。これに対して、本願発明培地においては、燐酸アルカリ金属塩は、PH緩衝と浸透圧を上昇させるために必要と考えるより、本願発明培地の燐酸イオン供給源としてより重要な意義を有していると考えられる。したがつて、引用例と本願発明とでは燐酸アルカリ金属塩を使用する技術思想が異なる。
2 本願発明におけるプロテアーゼの力価は、第一引用例に示されている最高力価の約四倍から七倍であり、同引用例に記載された技術内容からみて予測できる程度のものではない。本件審決が本願発明のこの作用効果を看過したのは違法である。
(1) 引用例培地は、本願発明の特許公報および特許出願公告昭和三三年一五九一号公報(以下「特公昭三三―一五九一号公報」という。)に記載されている塩田・坂口培地(以下「基準培地」という。)に対し、その約一・四倍の力価を有する。
第一引用例の第三図によれば、D培地、入江培地、〓五パーセントの培地にそれぞれ燐酸カリ三パーセントを添加し、四三三号菌を使用した場合の力価は、元永、三浦第一報の測定法(以下「カツプ法、比色法」という。)によれば約九であることがわかり、この力価は、第一引用例第一図燐酸カリ添加の中村・三浦・元永培地(四三三号菌使用)の力価にほぼ等しい。
次に、特公昭三三―一五九一号公報の第一図の1及び第二図の1として力価曲線が示されている培地は、前記第一引用例第一図の培地とは同一組成の中村・三浦・元永培地であり、その力価は四三三号菌使用の場合(第一図)でも、A一―五菌使用の場合でも(第二図)ほぼ等しく、約一〇(カツプ法、比色法)である。
このように、第一引用例及び特公昭三三―一五九一号公報のいずれにも、記載されている培地の力価を比較すると、両者はほぼ等しい値となつている。したがつて、力価の点で、第一引用例と特公昭三三―一五九一号公報第二図の1とは等しいものとすることができる。よつて、第一引用例における四三三号菌使用の場合の力価は、A一―五菌使用の特公昭三三―一五九一号公報第二図の1の力価に相当する。
特公昭三三―一五九一号公報第二図の2の培地は基準培地であり、その力価は、約七(カツプ法、比色法)である。
してみれば、特公昭三三―一五九一号公報第二図の1の培地と基準培地との力価の比は約一〇対約七であり、前者は後者の約二四倍であるから、引用例培地は基準培地の約一・四倍の力価を有することとなる。
(2) 本願発明培地は、基準培地に対しその約六倍から一〇倍の力価を有する。
本願発明培地の力価は、アスペルギルス・オリーゼKB菌をはじめとする糸状菌の使用により(E)五〇(大島変法による測定)である。
そして、A一―五菌も糸状菌であるから、A一―五菌を使用した場合の本願発明培地の力価は(E)五〇とみることができる。
一方、本願発明培地の力価測定法と同じ大島変法による基準培地にA一―五菌を使用した場合の力価は、日本農芸化学会誌第二五二号表一によれば、力価プロテアーゼ〇・三CCの場合は、力価(E)八・三三であり、力価プロテアーゼ〇・五CCの場合は、力価(E)五である。
よつて、本願発明培地の基準培地に対する大島変法による力価の比は、五〇対八・三三から五〇対五、すなわち、前者は後者の約六倍から一〇倍である。
(3) 力価の測定は前記(1)においてはカツプ法、比色法、(2)においては大島変法によるものであり、それぞれの測定による数値は異なつている。しかしながら、両者の力価は、ほゞ正比例の関係にあり、基準培地に対する前者の測定法による力価の比は、後者によつてもほゞ等しい比となる。
そうしてみれば、基準培地に対する本願発明培地の力価の割合は、六倍から一〇倍であり、これに対して、基準培地に対する引用例培地の力価の割合は一・四倍である。よつて、引用例培地に対する本願発明培地の力価の割合は、四・三倍から七倍である。